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大正8年に創立総会が開催され、日本製乳株式会社は誕生しました。酪農家192名の出資による会社です。この時、高畠町安久津に新工場を建設しています。
創設者梅津勇太郎は、青年期より信念、不屈の人でした。明治27年十九歳の時、酪農振興の信念のもと単身上京、時の農商務省に国有林の払い下げを嘆願しました。幾度か追い出しの目に合いましたが、やがてその真剣な態度に動かされた農商務省により、七ヶ宿の広大な原野の払い下げを受け、牧場経営を開始しました。明治45年にはかねてからの念願であった製酪事業の実現に踏み出します。仙台の永井四郎氏を技術習得のため米国に派遣、氏の帰国と共に、乾燥ミルク、乾乳糖の製造に着手しました。そして、乾燥ミルクから日本発の粉ミルクへと発展させてゆきます。
明治9年置賜郡二井宿村(現高畠町)の油屋、梅津栄助の長男として誕生。明治27年に単身上京、農商務省に国有林の貸下げを願って実現し、宮城県刈田郡茂ヶ沢に牧場を造成。乳製品の研究製造にも着手し、大正3年粉ミルクの開発に成功。大正8年、日本初のミルク会社である日本製乳株式会社を創設。昭和15年64歳で生涯を閉じる。
高畠小学校副読本「まほろばの里をゆたかに/町の発展に尽くした人々」の中で、黒井半四郎、浜田広介など著名な4人の1人として紹介されています。
黒井半四郎は、寛政年間に最上川上流(松川)より現在の日本製乳所在地高畠町糠野目を経て南陽市に続く灌漑水路「黒井堰」を築き、農業の発展に貢献。浜田広介は童話作家。その代表作の一つである泣いた赤鬼は、香取慎吾主演「フレンズ もののけ島のナキ」として映画化されました。
おしどりの名前には、生産者と販売者がおしどりのように仲良く力を合わせ、「日本の新しい食文化をつくる」との願いが込められています。
おしどり粉ミルクの生産は日本製乳、販売は東京銀座の長井越作商店にお願いしました。会社設立わずか4年後の大正12年に関東大震災が起き、甚大な被害を受けることとなります。この時、長井商店は、本社家屋、商品の焼失など困難な状況におかれながら、滞りなく商品代金の支払をされたのです。お蔭様で、地方の代金回収がままならない中、会社はなんとか出直すことができました。おしどり助け合い精神の賜物です。
今回の東日本大震災(平成23年3月11日)では、伝統を受け継ぎ、森永乳業との連名にて、非常食として簡便なミルクケーキ500ケース(2万5000袋)を高畠町に寄贈し、被災者に届けました。山形県は東北支援物資の供給基地となりましたが、拠点である天童市の山形総合運動公園から支援第一陣として出荷されました。
おしどり粉ミルクを世に知らしめたのは、北海道大学宮脇博士のご尽力によるところ大であり、当時(昭和6年)としては画期的な遠心式噴霧乾燥装置を当社にて実用化しています。この製品を三越本店で開催された全国優良国産品展覧会に出展し、好評を博しました。
また、乳の新鮮さとおいしさ保つため、昭和24年業界にさきがけ窒素充填方式を採用しました。これも宮脇博士によるものです。
勇太郎から粉ミルクにいたる開拓・先取り精神は続いており、1988年に山形市三浦記念賞、1992年に山形県産業賞を受賞しています。
日本製乳は、一時東急系列との資本提携を行いました。しかし、東急総帥五島慶太氏のご逝去を機に、昭和35年これらの資本を本来の酪農業界である森永乳業との提携に移管し、経営の安定化をはかりました。
現在は、平成20年2月より創立の地である故郷高畠に本社を構え、ミルクケーキとチーズを主体として、製造販売を行っています。 将来を見据え、平成18年にはチーズ設備を増強、ミルクケーキは新製造棟を建設、平成22年2月に操業を開始しました。建物はバリヤーフリーを完備するとともに、衛生管理を第一とし、食と労働の安全に優れた環境設備設計です。
食の宝庫である高畠町との地域連携として、チーズ主力製品には町のブランド「まほろばの里」を使用しています。また、ミルクケーキとミルクチップ(プレーン)は、平成20年「たかはたブランド」の認証を受けており、たかはたブランド認証事業所協議会の一員として活動しています。